イントロダクション
マイケル・ベネディクト
サイバースペース。これはSF作家ウィリアム・ギブスンの筆からおよそl984年頃にこぽれ落ちた言葉である。幸福ならざる運命を辿ったかもしれぬ言葉。もしこの言葉がrニューロマンサー」[★8]やrカウント・ゼロ」[★9]に描かれた近未来の絶望的でディストピア的な未来予想図一一企業による支配と都市の崩壊、神経細胞移植、ヰ→宮雑4÷と苦痛に停された生活といった未来予想lx一一につなぎとめられたままであったなら、そのような運命を辿ったかもしれない。しかしこの言葉は、テクノロジーという星のもとでの人間文化とビジネスの発展の新たな段階、新しくかつ魅力た益れる成長過程を指す言葉になったのである。
サイバースペース。これは新しい字宙だ。世界中のコンピュータと通信回線を使って生み出され維持されるパラレルユニバースだ。知識、秘密、度量法、浄宮拷宗牟i、娯楽、そして人間の分身としての工一ジェントの全世界的な交通が具体的な形象となって現われる世界。これまで地球上に決して出現したことのない光景、音、存在の現前が今や広大な電子の夜のなかに花開きつつある。
サイバースペース。システムに接続された任意のコンピュータを通じてアクセスされる、唯一にして限界なき場所。バンクーバーの地下室からでも、[ハイチの]ポルト
プランスに停泊するボートからでも、ニユーヨークのタクシーからでも、テキサ
ス・シティのガレージからでも、
ローマのアパートメントからでも、香港のオフィスからでも、京都のバーからでも、キンシャサのカフェからでも、月面の研究所からでも入り込むことのできる場所。
サイバースペース。タブレットはページになり、ページは画面になり、画面は世界になり、つまりは仮想世界になった。どこにでもあると同時にどこにもない場所。何ものも忘れ去られることはないが、あらゆるものが変化してやまぬ場所。
サイバースペース。精神共同体がつくり出す地理∴竿駐革命、規範と実験、といった互いに異なる手段を交互に用いてつくりあげられた精神的風土。データと嘘、心的要素と自然の事物の記憶、調査、取引、夢の共有、そして単なる注目といった行為を、ものもいわず姿を見せぬまま共同で行なう人々の百万もの声、二百万もの目で満ち満ちたテリトリー。
サイバースペース。電気が知性と手を携えて流れるところなら、どこにでもサイバーズペーズ#二が形ホ六ャんデータが負まり記憤さバるところなら、どこにでもサイバースペースルームが出現する。サイバースペースの奥行きはイメージ、単語、あるいは数がひとつ増すごとに、また事実あるいは思考が付け加わり、何らかの貢献を行なうたびごとにますます深くなってゆ〈。地平線はあらゆる方向でますます奥へと後退してゆく。サイバースペースはますます広がり、複雑化し、包括的になり、多様なものを巻き込んでゆく。膨れあがり、ぎらぎらと輝き、活発に躍動する世界。それはいわばボルヘス的な幻想の図書館であり〓ひとつの都市である。親密にして巨大で、確画としていながら流動的で、認知しうると同時に認知できない、そんな世界なのだ。
サイバースペース。無数のまたたかぬヴィデオアイを通じて、遠くの場所や人々の顔を、それらが現実であると非現実であるとを問わず、あるいは現存するか久しく以前に存在をやめてしまったものかによらず、現前へと呼び出すことができる。ひとつの文化の委託財産をつくりあげる莫大なデータベースからは、どのような資料でも閲覧できるし、どのような録音でも再生できるし、またどのような映像でも再生できる。各サイバースペース参加者の周りにあるものはといえば、研究所すなわち参加者とシステムをつなぐ架橋技術、特定の場をもつことなくひとつの世界を支配する家……そしてテーブルの下の犬くらいなものだ。
サイバースペース。都市の街路の石膏の外殻の下、街路の鉢植えの植物や安易なほほえみの背後では、さまざま甜←まさ‘撤と!rて一一あるいは、生体と晃.まがうようなものとして一一見出される。すなわち、金はJIIや毛細血管を流れるように流れ、さまざまな義務、契約は堆積してゆく(そしてIRS[アメリカ国税庁】の影
lf!干‐‐、物た
が広がる)。サイバースペースの表面上では室内で小さな会合が行なわれる。しかし、会合は実は仮想の部屋のなかで行なわれているのであり、見た目よりも多くの人間が竃子的に顔と顔をつきあわせている。サイバースペースの表面上では、建物の方があなたのいる場所を、そしてあなたがだれであるかということを知っているのだ。
サイバースペース。安全性と正当性の確立によって単に経済的に生き残ること、そして賞賛と信頼と自由というトークンの交換行為、さらに影○、知識そして娯楽をそれ白身のために追求するという行為に至るまで、個人の生∵トーおよび粗織の生命L一にとって重要な情報は、すべてサイバースペース内で販売の対象、あるいは獲得の対象となるだろう。
サイバースペース。純粋な情報の王国。それは湖のように豊かで、物理世界を変革するメッセージのジャングルのなかから情報を吸い上げ、自然や都市の景観を汚染から救済する。製紙産業の森林伐採用ブルドーザを、貨物”送や郵便のトラックの排煙を、ジェットエンジンの燃焼煙と発着で混みあう空港を、掲示板を、役に立たぬ外観ばかりの建物を、何時間もかかる通勤用フリーウェイを、チケット購入の長蛇の列を、渋滞する地下道路を…“要するにすべての非効率的なものを、さらに(化学および清報に関わる)汚染を、そして“もの”−一つまり紙から脳に至るまでのもの一一という媒体に乗った情報を、これらをサイバースペースという柔らかな電子の粒のなかに自由に舞い踊らせるのではなく、地表という広大ででこぽことした表面、上空、そして地下を移動させることで生ずる腐敗現象を迫放するのである。
以上に述べた一一そしてその主要部分については本書全体においても述べられる一一サイバースペースなるものは、現在のところ存在してはいない。ところがこれは真実を単純化して述べているにすぎない。シャングリラ[小説に描かれた地上の楽園]や、数学や、かつて歌に歌われ朗諦されてきたありとあらゆる物語のような、精神が生み出す地理は、すべての文化において活き活きとした心的世界や、集団的記憶や、あるいは幻覚の内に存在してきたのである。それは神話的形象、象徴、規則そして真実からなる合意にもとづくテリトリーであり、方法を会得した者によって所有され自由に往来の行なわれる領域であるとともに、物理的空間および時間に備わる制約は一切免れているのである。今日人々の興味をとらえて放さぬもの、それは技術的な先進文化一一例えば日本、欧州、北米といった地域の文化一一が、そうした古代より夢見られてきた空間をユニークなかたちで視覚化するとともにそれをインタラクティヴな民主制にもとづく世界につくりあげる、まさにとば口に立っているという事実なのである。今世紀の偉大な科学思想家のひとりカール・ボパーはl972年にこうした構想の枠組を粗描した[★l8】。全体としての世界は相互に接続しあう3つの世界から成
り立つと彼はいう。〈世界l〉は物質、自然の事物、そしてそれらの特性一一およびそれらのエネルギー、重さ、運動、その他一一からなる客観的世界であるとされる。〈世界2〉は意識一一および個人の精神内の意志、計鋒、感情、思考、夢、記憶、その他一一からなる主観的世界である。〈世界3〉は、客観的かつ現実的かつ公的な諸伊造からなる世界で、その伊造は、生物がお互いどうしでまた自然的な〈世界l〉とインタラクトすることで生物の心から生み出される、必ずしも意図的な側面をもたぬ生産物である。一塚や鳥の巣や、ピーバーのダムといったような、助物が環坊に対処する過程で生み出す朽めて高度な複雑性を備えた檎造は、〈世界3〉の先駆である。しかしボパーが指描するように、多くのく世界3〉的〜造は柚象的である。つまり、純粋に情報的である。例えばさまざまな形式の社会組織、通信パターンといったかたちをと?ている。こうした抽穣的桁造は常にその複雑さ、美しさ、そして生命上の重要さにおいて〈世界3〉の物理的構造と肩を並べるばかりかしばしばそれを凌鴛する。言話、数学、法律、宗教、哲学、芸術、諸科学、そしてあらゆる穫類の制度といったものはすべて同種の〓築物なのであり、それはわれわれが物理的世界に建てる図書館と同じように、自らを運用するための命令体系、つまり“プログラム”を記憶するのである。人間が、く世界3〉硫た、空間の客観的な実在を信じ、それに対してますます有効にふるまうようになったということは、人間がそうし〓空間をちょうどすべでの生命体を相手にするときのように探究し、評価し、批判し、拡張し、その奥を探ることができるようになったということを意味した。そうした存在や空間はまるで自然の事物のように、あるいはほとんどそれに近いようなかたちで進化することができた。このような抽象的世界に人間がつくり出した創造物は、それ固有の自律的な問竃をもまたつくり出すことになるとボパーはいう。つまり、それは、法的体系、科学および医療行為、あるいは本沓の主題でいえばコンピュータおよび娯楽産業の絶えざる進化という事態を見たのである。そしてこうした〈世界3〉型柑造は常に〈世界l〉とく世界2〉へフィードバックされ、そこに予想を超えた出来事を導き入れることになるのである。要するに、ボパーにとっては、神殿、聖堂、市場、法廷、図審館、“場または野外劇場、書簡、本のページ、映画のリール、ヴィデオテープ、CD、新門、さまざまなパフォーマンス、アートショウ、……といったものはすべて、より全体的なかたちでく世界3〉に存在するオプジェクトの物理的顕在化一一あるいはその物理的構成要素というべきか一一なのである。それらは“オブジェクト”である。すなわち、観念、イメージ、音、物語、データのパターン、…”つまりは純粋情報パターンである。そしてサイバースペースとは、もうおわかりになっ
質性という重りを取り払った一一しかも今度こそはおそらくきっぱりと取り払った一一〈世界3〉の進化のデ後の段階以外の何ものでもないのである。
本音は、こうした発展の帰結と限界を見極めようとする試みである。しか
しながらサイバースペースは、進化の法則に従って、どこまで発展しようとも、それょ‐cく虹界3〉ぜかたちづくっていた要素に代わって同じ場を再び占めることにはな古代の神話的主題がわれわれの先進的技術文化のなかにも活き活きと脈打らないだろうという意見もある。サイバースペースはかつてのく世界3〉に取って代わるのではなく、それを移動させるのである。自らがはまり込むべき場所を見出し、確定し、そしてかつての要素がより精密に要素自らを定義するように促すのである。それが今までの〈世界3〉の歴史だった。仮想現実もまた“本物の現実”に取って代わることはあるまい。確かに、本物の現実一一つまり空気、人間の肉体、白然、本、街路……といった無限に続くもののリストー一は、その妙なる意匠、歴史、本質、有意味性のすべてにわたって、絶えず賞賛を新たにする対象であるとともに、もはやと±〓三iこれ以ヒのものを望みえないものである点で優位に立っているといってよいかもしれない。
私はボパーのかなり広範囲の事象を対象とする分析を手がかりとし、本書
の研究対象たるサイバースペースの起源と本質に関してより狭い範囲の考察のための場を設定した。そこで私ばこの〈世界3〉の進化の歴史のなかに4本の糸を見出すのである。この4本の糸は互いにからみあいながら進化を織りあげている。
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これは最も歴史の古い糸で、言語の発生、あるいはそれ以前に遡り、部族あるいは社会集団の成員間の心的共同性の形成とともに発生したものである。言語による対話によって検証されることのない一一対話のかたちで“間かれたものへと”まだ導かれていない一一この心的共同性は、単純に“事例”とみなされるだけであったさまざまな信念の集合をめぐって、集団内の相関的な行為のなかで検証され有効性をもつに至るのである。その信念集合とは、環境をめぐって、その環境が及ぼす危険や報酬の大きさやそれが起こる場所についての賢明にして無謀な知識に閲する信念であったり、過去や未来をめぐって、不透明な事物の内部に、地平線の向こうに、地面の下に、あるいは空の上に一体何があるのかということに関する信念であったりする。こうした疑問への答えのすべては常に間違っており、また常に何らかの映像を伴っていたが、これらの知識は個人のなかに内面化され批判を受ける前に既にひとつの共有財産となっていたのである(C‐H‐ミードやL‐S‐ヴィゴッキーが指摘したように集団心性は個人の」L、性に先立ち、藩欝よ批判I的例外意見に先立つといってよいかもしれない)。その後言語と図像表現を加え、およそ1−2万年前頃に世界と!ノて確立し、今や完全に人工的世界へと入り込もうとしつつあるこのく世界3>は、そのアイデアの開花から成熟に至るまでが極めて迅速であった。その変奏の主題は生と死、“何ゆえに”と“何のために”という疑問、すべての事物の起源と終焉という共通の主題をめぐって展開され、そしてこうした変奏は私たちが現在“神話”として認識ししばしば軽蔑もする物語、架空の登場人物、芝居の情景、法、教訊Iからなるある程度の一貫性を備えたシステムへとエコロジカルに融合してゆくのである。
つことを認めるのに、なにもカール・ユングやジョゼフ・キャンベルの弟子である必要はない。そうした主題は、空想世界を生み出す私たちの芸術について教えてくれるだけではなく、われわれが互いに理解しあい、検証しあい、そしてわれわれ自身の生活をかたちづくるやり方についても、極めて現実的なかたちで教えて〈れるのである。神話は“人間的状況”を反映するとともにそれを創造もするのだ。
というわけで、われわれ人間のなかで明らかに神話を生み出しやすく、またその意味で最も生産的といえる世代とは、“大人になりつつある”世代、つまり若者たちである。思春期の若者たちは自分がつくったわけでもなくまた理解のしようもない複雑で規則ずくめの世界一一次第に彼らの上に重くのしかかり始める現実世界−−ヘと仮借なしに追い立てられ、ある種の怒りと困惑を覚えながら彼ら自身の文化の“集合的無意識”−−→彼らが既に所有する世界一〓へと身を寄せ、そこに確固たる停泊地や行動の手がかり、反抗の基盤を求めようとする。虚伊と事実との、願望と現実との、可能性と蓋然性との境界は彼らにとっては強制的なものに見える。それに、純粋なもの、理想的なもの、正義、善、悪といっ塊簸よ、子供時代の読書や映画銘賞で培われた後、大人へと向かう格閾のなかで強化されるとともにねじ曲げられてゆくのである。思春期の若者、特に若い男性だけでほとんどすべての漫画、SF、テレビゲーム産業(および、かなりの部分の音楽および映画産業)が支えられていることは鷺くに当たらない。こうした“メディア”の活力の源は神話であり民間伝承であり、生命のより複雑で目に見えないダイナミクスを具体的に描き出した記述である。また、若い男性が新しいテクノロジーをマスターしようという彼らなりの文化的傾向一一実際には目標一一をもつときに、彼らがコンピユータハッカーとなり、オンラインコミュニティやニユーズグループに住みつくようになるのも鷲くには当たらない。確かに、“サイバースペース”がもSF小説のなかに予言されたのと同じように、オンラインMUD(MultiUserDungeons)の若きプログラマーたちや、彼らより少し上の世代の、MITのメディアラボ(MediaLab)やNASAなどさまざまなコンピユータ科学研究室、あるいはテレビゲームネットワークを通じて百ほどの小さなソフトウェア会社に深夜にハッキングしていた同類たちは、まさに本当の意味において、また彼らのまさにその活動によって、サイバースペースを創造しているといえるのである。
だからといって、サイバースペースは子供用のものであるとも、また男の子
用のものであるともいうわけではない。サイバースペースばその本質的な非物質性と変幻自在さによって、神話的現実の創造にとってテ大級の魅力をもつ舞台を提供してくれるのである。その神話的現実は、かつてはドラッグ使用型の儀式、演劇、絵画、書物といったメディアに中ピ送あられていたのである。そうしたメディアとは、それ自体としては自らが求める理想に対して常にいくぶんか小さいものであり、結局理想に至るまでの単なる手段にすぎない、そんなメディアなのである。サイバースペースは、年をとって衰えたわれわれの能力を延長するものであるとみなしうる。ある
いは不可避的延長と呼ぶ人がいるかもしれない。ともかくサイバースペースの住まいは虚伊のなかにしかない。たとえつかのまであるにせよ地上に住まうように別の神話カJ地表に住まい、そこで力を付与され知識を与えられねばならない。たとえ魔術やこの世ならぬ仮想世界を引きあいに出さな〈とも既にパソコンネットワークの魅力がかなり一般に浸透した一一もはや意識の操作者として恐れられることもなくなったし、また単なる玩具や計算機として否定されることもない一一ことの理由は、その目もくらむほどの速度で特別な魔法あ言葉、手段、行為、特に解の導出や技法の習亨といった行為を実現でき、そして遠くの場所や埋もれた資源に瞬時に接続を行なえるという点に求められる。大人にとっても若者にとっても、また芸術および自己潅立という目的のためにも、理性的コミユニケーションやピジネスといった目的のたbにも、サイバースペースは神譜筈=論珪なるものを測る優れもののものさし、すなわら現時点でだれひとり予想することのできないものを正確に顕在化させる(複数の)手段を手に入れることになりそうだ。
本書の著者のうちの3名一一マイケルハイム、アルケール・ロザンヌ・ス
トーン、デイヴィッド・トーマスー一は文化人類学的主題を取り挙げ、殊にストーノレトーマズ〓t“#群持ギ”な佃I面から、物理的身体の意味の変容に特別に言及し⊂いる。チップ・モーニングスターとP‐ランドール・ファーマーはオンラインゲー、、特にルーカスフィルム(Lucasnlm)社のハビタット(Hab二tat)の開発に関わる至験を報告している。さらに直接的ではあるが、ウィリアム・ギブスンの短文もまL、それ自体フィクションのかたちをとった寓意的な作品として、やはりこの種のレ〓ルへの寄与となっている。
申話の歴史とからみあうもの、それがメディアテクノロジーを織りあげる歴史の糸で♭る。その歴史とは、いうならば、不在かつ/また抽象的〓珪L一出来事、経験、見念一一を象徴的に表現し、それを適切な物質のなかへと直定し、かくして時間おヒび空間内に保存するための技術的手段の歴史といえるだろう。ここでもまたおな二みのストーリーが見出せる。それを詳述することはこの序論や本審の主題を逸脱「ることになる。それでもそのリハーサル程度のことを試みるだけの価値はある。し!〓も極めて奥の深い題林でもある。なぜなら、生命そのものの謎は遺伝子のコードヒという神秘と、互いに調和しあいながら再生と運動を繰り返す分子のふるまいのミかにすっぽりとくるまれているからだ。遺伝子は情報である。分子は樺〆であると二もにいわば作用因でもある。
しかしわれわれはここから、つまり計算処理の理論家の門心と生物学者の
ョ心が出会うこの坊所から糸2を語り始めるわけにはいかない。われわれの物語の最‡の出発点、それは、進化した人間による物理的環境の意識的な使用である。具体
的には、メッセージの保存と伝連を目的としてさまざまなしるしをデもよく記録する、それ自体空白の状態を保った物質の部分一一例えば砂、木、村皮、骨、石、人間の身体一トーの使用である。そしてそのメッセージとは、臭跡や足跡や何かの前兆を告げる植物や空の色といったしるしばかりでなく、今や人間と人間、人間とその後代の人々の間で意図的に伝連される記号までをも含む。まずはた〆の全産から始まり、平らな石行の壁、薄い燃、パピルスが考え出され、さらにしるしづけ−一刻印一一の作業が軽滅されて顔料を含ませた毛筆またはベンの音の出ない運助に至る、その進歩の階梯は何と優雅で創意にhれたものであることか。社会が知的になり、記録の保存と教育の必要が増大するにつれ、記号そのものを単純化し規範化し、さらに一定の列や屈に配置して“筋て故”巻き物に記す方がはるかに効率的になつた。
こうした初期の段階から既に、メディアの脱物質化へ向かう動きと、意味
の物質化へ向かう動きという二重の運動が進行していた。時間の侵食に面附え、そして文字の読めない大衆にもよりよく訴えるためには、石による巨大な彫像、乃〈≦、浅協だけが効力を発揮したのである。こうしたものは今もわれわれの目の前に残っており、古代の文化から生き延びて今なお私たちに感銘を与えている。しかしだからといって、日々の生活を支えていたに違いないもっと短命なメディア、例えば文字の刻まれた粘土板、樹皮の断片、落書きされた壁、計算板、パピルス、砂上の図表、風に翻る旗、身振り、示威、パフォーマンス、それに空気中を滴たしてやまない歌やゴシップや噂話や号令の声といったものによる情報交決をないがしろにするのは間違いである。デザインされ、つ〈られたものは、皆それぞれにその使用と所有、製作の過程と製作者をめぐる物語を体現している。この世界は奇妙なまでに牧歌的に見える。この世界の〓成要素の多くは、ほとんどかたちを変えぬまま今日まで生き延びている。事物が、あるいは純粋な図像や記号さえもが、空虚な存在であったり無視できるものであることをやめ、現実的で有意味なものとなり
さらにはその事物が物的に参加する過程へと浸透してゆくまでには、おそらく4∞0年ほどの期間を要しているだろう。ところが、まず尺初に書字と計算と種々の図像表現のモードの発展があり、さらには数世紀のうちに印刷技術の発明と神学者および貴族といった集団への読み音き能力の普及が起こって、空中にたちまちのうちに消え去る口頭のコミュニケーションが、前代未聞の規模で寵ヒ曳されうるようになった。われわれの物語にとってさらに重要なのは、こうした“記録”が容易に複製、運搬、伝播できたという点である。
生命にはひとつとして同じものはない。印刷革命および、マーシャル・マ
クルーハンが“グーテンベルクの銀河系”(これは彼の本のタイトルでもある)と呼ぶものの確立とが技術先進社会の構造と機能においてもった意味は、どれほど過大に評価しようとも評価し足りないほどである[★n4]。そのうちの主なものを挙げると、l)観念の産出と伝播手段の事実上の確固たる民主化、(2)科学的知識、さまざま♭文化的営為、夢、論証、そして資料にもとづく歴史つまり〈世界3〉で構成される芋観的本体の指数関数的増大、そして(3)正統と異端の両方を含むこの客観的本体ま、あるひとつの場所に位置することもまた完全に制御されることもありえないという事実、といったことになる。
しかし、この二重の運動は、われわれ皆が今日目撃するとおり、そこで留
モりはしなかった。お触れ書から聖典のたぐいに至る‘窄F輪r伊が、ロバ、トラップ、船、あるいは飛行機が物理的に運べるところなら原則としてどこへでも運搬さlえたとはいえ、そこには白ずと限界、つまり時間という制約が存在した。何日もらるいは何週間もたってしまってはいかなるニュースといえども新鮮さを失ってしまう。ニュースに品物の輸送がからむ場合には特に制約が生じる。なぜなら、どんなノッセージといえどもそのメッセージが予告する品物よりも早くは届けられないとしこら、そのときにはメッセージにいかなる価値があるだろうか。そこで竜信が生まれヒ。手旗信号、発煙信号、ライトの点滅に続く、最初の“メディア”である電報が圭場し
∴、離れた場所にある“中“局”
±f結んだ。これに関連するもうひとつの制約は費用である。すなわち、紙を物理的F面上で輪送するのにかかる純粋な費用である。肉声によるほぽ同時的でコストゼュのコミュニケーション、あるいは噂話や回覧板によって小さな共同体では成立しえヒ柔軟な心的共同性という状態は、広範囲の地域では崩壊してしまう。社会的なまヒまりは、観念化作用
をも魂筋関数であり、そのため絶えざる修整とインタラ
ブションがなくなってしまえば、こうしたまとまりの持続は〈世界3>といういわば講築物一一およびその記憶一一に関する早期からの厳しい教育に決定的に依存する二とになる。
電話の導入とともに、速度の問題と費用の問題はともに大きく取り除かれ
5ことになる。一度回線が引かれてしまえば、微々たるコストでメッセージが伝達さl、しかも“声の電報”としてのみの使用、つまり重要な要件に限って使うばかりド能ではないことがまもなく(興味深いことにl930年代、40年代という時期にのみ)里解されていったのである。むしろそれはコミュニティづくりとビジネス遅営上の、亘常的で有意味な相互交流のための開かれたチャンネルとして利用されえたのであ5。確かに“l対l”の交流なのだが、しかし一定の時間単位に見た場合には“多対多”の交流となるのだ。かつてメディア港らだものが、答もメディアなの÷÷え。そりコミュニケーションと能力の限界はまだまだ検証し尽くされていないのであり、電舌のシステムはコンピュータネットワークに接続されることによって、当初完成されヒものとは著しく異なったものになるだろう。
もちろん、この場合の技術的な進歩というものは、物理的に、つまり慣性
中摩接の力に逆らって情報を伝送することから、伝送を介して電気的に、つまり結長として抵抗や遅延を経ずに情報を伝送することへの、いずれにせよ先進的な方向
転換であった。これにさらに電磁気的に情報を籠’桂する能力(最初のテープレコーダはl935年に商品化された)が加わり、そしてさらにこのメディアを脱物質化し時間と空間を征服する一一といわれる一一うえで重要かつ革新的なさらなる一歩がしるされるのである。
しかしこれと並行して、おそらくはこれ以上に重要性をもつ発展が起こる。
ち蕪あによ〓つまりラジオとテレビが開発されるのである。まも
すなわ・
なく無数の情報源から送り出されるコード化された言葉、音楽、映像は目に見えぬ“蘇革聾逢”【,垂◆、でヰすミリヌートル肖.位で全同津々浦々に何ら障害を受けることなく行き渡ってゆく。ラジオから流れるのは実物の音そのものであり、テレビから流れるのは実物の映像そのものだ。車の衝突、戦争、笑顔、大洋、火山、泣き顔、テニスの試合、香水のびん、歌う顔、事故、ダイヤのリング、顔、湯気を立てる食物、またもや顔、…
tなく、放送用にアレンジ
された映像なのである。批評家で作家のホレース・ニューカムは、テレビを÷ミニ三ケーションのメディアではなくコミュニオン[共有]のメディアと呼ぶ[★l6]。イギリス人、フランス人、ドイツ人、アメリカ人、ロシア人、日本人……などが夜な夜な何百万人と集まって腰を下ろし、それぞれの民族的神話体系を眺め追認する場所であり機会であるというのだ。夜な夜な百ほどの夢にもとづく変奏が、倦むことのない麻薬的な力をもって繰り返し繰り返し反復され映し出される。ここには音でつくられたマクルーハンのグローバルヴィレッジが無数にあり(マクルーハンが望んだのはただひとつのグローバルヴィレッジだったのだが)、これによって電子メディア、特にテレピが曇負そのものに似ていなくもないメディアを提供するという考え方が成立するのである。すなわちこのメディアは周囲を取り巻き、浸透し、循環しながらも目に見えず、記憶に留められることもあるいは留めることを要求することもなく、このメディアがなければ絶望に陥りあるいは敵対していたかもしれない個人や地域文化に和解をもたらすのである。
コードレスかつプライヴェートなセルラー竜話、携帝型コンピユータが電波
を介して通信に用いられるようになり、地理的位置の重要性そのものがあらゆるレベルで疑わしいものになり始めている。
われわれはノマドになったのである…しかも連絡をとりあうノマドに。
その間に、物質メディア、つまり印刷をベースとするメディアはさらに成長と洗練を遂げ、かつ今も遂げている。“ビニール盤[LP]”による音の記録(一種のミクロ刻印)、カラー写真、オフセット印刷、映画など、そのリストは果てしない。これらは単に洗練されてゆくばかりでなく、一般大衆がますます大量の雑誌、広告、漫画本、新間、映画を措☆+えぱかりかその生産手段にまでどんどんとアクセスするにつれて平等化へも向かってゆくのである。かくして人々はコピー機を、カメラを、撮影機を、レコードプレーヤーその他を求め、それぞれの機械はやがて自らのエレクトロニクス/デジタル版をもち、さらにはハイブリッド版、拡張版、異種交配版をもつようになる。すなわち、衛星回線で竃子データを各地域ごとに受け取って印刷される全国紙、ファクシミリ、デジタルリプリント、デジタルレコーディングなどが出現する。
われわれの第2の物語の糸の終焉は目前に迫っている。高速パーソナルコンピユータ、デジタルテレピ、広帯域伝送ケーブル、ラ
ジオ周波数ネットワークの出現によって、いわゆるボスト工業化社会は、“永遠に短命なるもの”(読者のかたはもうおわかりだろうが、つまりはサイバースペースなるもの)へ向けて、さらに深奥への旅へと向かうばかりの段階に来ているのである。本書のいくつかの章でも取り挙げられているように、いわゆるオンラインコミュニティ、電子メール、情報サーピス(USBNBT,Well,CompuServeなど多くのサーピス)は既に技術上、運用上の緒についている。しかしこうした探究の旅の重要性は、今日÷÷二≠ニチjレ)チ[)÷斗という話題を取り巻く、ほとんど常軌を逸した興笹によって最もよく表わされているといえよう。
SF小説の作家兼推進者であったヒューゴー.ガーンズバックによってl963年に構想され(スタシャワー[★2=】を参照×アイヴァン・サザーランド[★25】によって実験的に探究されたヴァーチュアルリアリティ(VR)技術は、今や実用段階への移行の入り口に立っているとともに、現伊学的にはすべてを包括しつつ、ただ目には見えないコミュニケーション/コミユニオンメディアを創造するうえで、現時点で行なえることのすべてをやり尽くしていることも確かだ。脳と直結する迫当な視覚装置を付けた一対の小型ヴィデオモニタをかぶることによって、“ユーザ”の眼前には3次元映像が形成される。この映像はユーザの頭の動きに応答し、コンピュータによって絶えず修整され調整される。こうしてユーザは、自分が安定した3次元仮想世界に完全に取り囲まれていると感じる。ユーザが目を向けるところどこにでも、まるで周りに実在の世界があるかのように仮想の世界を見出すことができるのである。この彼ゼ朽★世界はコンピュータによってリアルタイムで生成されるか、あるいは計算処理され記憶されるか、あるいはどこか別の場所で物理的に存在し“ヴィデオ映像化”され立体およびデジタルのかたちで伝送される(後二者の場合は、その技術はヴァーチュアルリアリティというよりも÷レケシせシノと呼ばれる方が多い)。加えてユーザはステレオヘッドホンをつけることもできる。頭の動きを追いながら、完壁な聴覚が視覚に追加される。最後にユーザは、特製のグローヴや場合によってはボディスーツを装着することもできる。これらの装直は、位置および運動変換器と連動し、別の変換器に向けて、かつ自分自身に対して、自分の身体の形と動きを伝送して仮患世界上でそれを表現するのである。グローヴまたはスーッに向けて何らかのかたちで力をフィードバックして、ユーザが仮想の“固い”オブジェクトの実在感一一その重さ、肌理、そしておそらくは温度に至るまでも一一感じ取ることができる装置の研究も現在進行中である(現在の研究状況の概観にはステュアート[★23]を、さ
らにラインゴールド[★20]を参照)。テレビシIJ一ズの「スタートレック」に出てくる「ホロデッキ」や、rトータルリコール」やrブレインストーム」などの映画で粗描されたような装置、それにいうまでもなくギブスンの小説で語られているようなダイレクト・ニユーロン接続といったような架空の技術についても射程に収めれば、ヴァーチュアルリアリティおよびテレプレゼンス技術は、実際には完全な人工感覚世界への侵入、完壁な人工および(または)遠隔世界への没入へと限りなく近づいてゆくことになる。
たったひとつの形式でつくってゆくのかそれとも複数の形式を併せてつくっ
てゆくのかという間題については、たくさんの譲論が交わされている。もし後者でゆく場合には、どれくらいの数で、どのようにつくってゆくかが問ヌになる。本讐の多くの章では、単一形式か複数形式かという間題がW取り挙げられ論じられている。というのも、サイバースペース,築上の実務的間題を除くとして、仮想世界の人口の増大に伴い、参加者のふるまい、図像言語、表現モデル、オブジェクト“物理学”、プロトコル、設計に関するコンセンサスをつくる必要性トー一言でいえぱ、一般的で、一定レペルでは単一で、公共性と無矛盾性を保ち、しかも民主的な“仮想世界”としてのサイバースペースというものをつくる必要性一一が生まれてくるからである。またそこにこそまさにサイバースペースという概念のもつ力が存するのである。本音ではウェンディ・A‐ケロッグ、ジョン・M‐キヤロルおよびジョン・Tリチャーズによる章、スティーヴ・プルイットおよびトムバレットによる草、メレディス・ブリッケンによる章、さらにはマイケルハイムによる章が、サイバースペース体験の主要な構成要素としてのテレプレゼンスまたは“仮想性”という、注目すベき現象について特に着目している。本書の他の執筆者は、より完全没入の度合いの少ない技術、とはいえ現在のかなり単純で低解像度の2次元画像およびテクスチャーによるインタフェースに比べればはるかに先進的なものと考えられる技術であるが、その技術を使って実現可能なサイバースペースを構想している。
糸2は、こうして通信メディアの歴史から派生しているのである。ところが身体÷角∴え祥÷為という普遍的で読み吉き能力以前の即時的通信状態から、籠与÷用∴ネ杵為という教育により階層化された、読み番き能力にもとづく現実へと向かう広範な歴史の流れは今や逆転しつつある。映画、テレビ、マルチメディア計算処理、そしてヴァーチュアルリアリティによって、歴史の流れは原初へと回婦しつつある。こういう言い方が許されるなら、この画帰の呆てに約束されるものこそ“ボスト読み書き能力時代”の到来なのである。ヴァーチュアルリアIJティの先駆者であるジャロン・
ウれば、“ポスト驚J写ミ諦書蒔寺代”の到来ともいえよ
う(ラニア[★l3】、ステュアート[★24D。こうした時代になれぱ、言語指向型の記述や言語ゲームは、個人の観点や歴史的事件あるいは技術情報を伝逢するのに、もはや不可欠のものではなくなるだろう。
元の素材の直接的な
デモンストレーションとインタラクティヴな体験が普及するか、少なくともそのようなことが起こりうる可能性はあるだろう。われわれは再び手襖向久あ存在になるかもしれないが、しかしこのときには自由にいくつもの世界を呼び出し、他人に自分の体験のいくつかを素早く味わわせることのできる能力を身につけているだろう。
未来のコンピュータメディア環境においても、この種の文字どおりの体験
共有型世界が、記号使用による観念的で問接共有型世界を超えるかどうかは別として、後者のようなテクストと図像表現による伝統的なメカニズムと一体化した世界は残っているだろう。純粋VRは独自の用途を見出すのに対し、十分に開花したサイバースペースはあらゆるモードを使いこなすことになると思われる。
★3
もうひとつの物語の糸、それは建築の歴史から紡ぎ出される。
読者のかたがたは、ボパーが建築を〈世界3〉に属するものとみなした[★
!8]ことを覚えておられるだろう。確かにこれは正しい。なぜなら、身を守る場所、美、意味というものカ戒嬢き∴Lそ∴な∴自然のなかにこそ見出されるとはいえ、居住環境としての自然が選び出され変形を施されコードとして体系化されるのは、建築があればこそ可能だからである。
建築は実際には移動と追放とともに始まる。追放とは、2∞万年前のアフリ
カの穏やかで肥沃な平原からの追放である。エデンの園からの追放といってもよい。エデンの園はいかなる建築も衣服も必要としないのだから。そして移動とは、豊かな食物、わずかな競争者、そして大地が養うことのできる以上には決して増えない人口からなる世界を離れての移動の旅である。気候の急速な変化、競争の増大、指数関数的人口増大によって、原初の人間の状況は不可逆的な変化を被った。今日に至るまで、建築はこうしてエデンへのノスタルジーのなかにどっぷりと浸ってきた。あるいは不屈の姿勢を貫いてきたともいえるかもしれない。
建築は気候の圧力に対する創造的な応答、定任のための優れた場所の選択(およびその場所の確保の必要性×そして人口と資源圧力に見合う社会構造の内的発展とともに始まる。すなわち、プライヴァシー、財産、立法行為、仕事の専門化、儀式などのメカニズムの発生とともに始まるのである。こうしたものすべては、利用可能な時問、素材、デザインおよび構成上の専門能力を考慮して行なわれるべき活動であった。これらに、今述べた諸点に対応して文化が生み出す制約や規範が加わった。こうしたものはしばしば恋意的で役に立たぬものだった。ところが規範や制約が姿を変え、そして人間が狩猟と採集から都市化に通ずる良耕生活へと移行しても、エデンの園への回帰のテーマは変わらなかった。それは人間相互が、そして人間と自然とが無垢な(と想定される)関係を保っていた時代、部族的/親族的/民族的単一性の時代への回婦という観念であった。
私がこのテーマを取り挙げるのは、これによって建築をヰナするためではな
く、これが建築の自己脱物質化を推進させる主要因であるからだ。焼物質化?
こ
んなことをいうと読者は驚かれるかもしれない。だが桔局のところ建築とは一体何であるのだろうか?もし建築が持続性のある物質的世界を創造し、それによっていく世代もの男や女や子供たちを育て、彼らを彼ら自身の歴史のなかに位置づけてやり、他人の詮索好きな目や雨や風やあられや投射物から常に彼らを守り、要するに持綻性を備える世界として、そのなかで存続あるいは言己憶されるべきすべてのものに永続的な記念碑を与えるものでないとしたならば、建築とは何なのだろうか?
確かにこうしたことは建築が呆たすべき最も基本的なつとめであるだろう
し、そのつとめのなかでも最も神聖なものは、既に別の場所でも論じたように[★!]、われわれのいう“現実”なるものの感党にとって標準となる、建築の自然に対する関係である。だがこうしたことにばかり注目して、重要なもうひとつの側面を見落としてしまってはならない。その側面とは、日常のありふれた建築のむき出しの粗雑さと、閉所恐怖症を起こさせるような倭小さを前にしたときに湧き起こる憤然たる感情によって培われ、そしてこの感情それ自体はわれわれ自身の肉体の武骨さ、限界、そして最終的な不実さ、すなわちその死すべき本質を前にしてわれわれが党える憤然たる恨みの感情から湧き上がってくるものなのである。現実とは死である。もしできることなら、われわれは大地をさまよいながらも決して家から離れることがなけれぱよいものだと思う。リスクもなしに勝利を味わい、禁断の木の実を食ベ、なおかつ罰せられず、日々天使たちとの合奏を楽しみ、生きたまま天国に入り死を免れる、そんなふうになってみたいと思う。このような正気を欠いた願望の名のもとに、われわれは華美と装飾を崇め、勇気と善行に報い、永遠の生命を確信して学び続けるのである。そしてあたかもいつかは典を生やすことができるとでもいうかのように!典を生やすことができるとでもいうかのように、われわれは彩色された窓と寓意的
に抗して鉾睾え立
たせ、アルハンプラ宮やヴェルサイユ宮殿やタージマハールや龍安寺にあるような天国に似た庭園をつくり、壮大な図書館、迷宮をこしらえ、そして聖なる山の頂に展望台を建て、度肝を抜くような空飛ぶ円盤型エレベーターをもち広大な空間にエアコンをきかせた温室をつくり、ハンググライダーをつけて丘から飛び降り、黄金やシャンデリアや永遠に流れ続ける水流に目をくらませるのだ。われわれは洗い、磨き、漂白する。それはすべて、ここと今における自然の生のむき出しの支配を超えようとする、普通的で文化を超えた営為なのである。しかもこれは、自然がわれわれにもたらす、まさに物質によって可能となるのである。
地上の庭園としてのエデンに対立するものとして(また壁に囲まれた庭園としての天国にさえ対立するものとして)、天上の都市すなわち「ョハネの黙示録」の新エルサレムは、浮遊する都市というイメージをもつ。まるで宝石をちりばめた重さのない宮殿のように、それは天そのものから舞い降りてくる。「その輝きは最も稀なる宝石にも比すべく、碧玉のごとく透明である」(r黙示録2l:9」)。いまだだれひとりとして垣間見たことがないにせよ、その都市の地形が現見事なまでに複雑にかつ明瞭で、l2、4、7という数のそれぞれが、互いに補いあう字宙の意味のまとまりに対応させられていることをわれわれは知っている。水晶のような透明な黄金でできた街洛、画い真珠でできた門をもち、「神の栄光こそが都市の光である」がゆえに、その都市を照らす太陽の光あるいは月の光を必要としない都市一一。
実際に、天上都市を表わしたすべてのイメージには、洋の東西を間わず共
ピする特徴がある。すなわち、重さのないこと、埠いていること、数理論的な複雑生を備えていること、宮殿の上に宮殿を重ねたような柑造であること、善意溢れる弩者たちの定める規範に従って平和で調和のとれた世界であること、極度に清潔でらること、自然を超越しむき出しの原初の状態を超越していること、娯楽や文化的聲みのすべてが享受できること、などである。そしてこうした宮殿を何とか描写しようという試みが、かつて中世の修道僧や画家たちが試みた稚拙な最上級形容詞の乱モとはほど遠いレベルで、無数のSF小説のカバーページあるいは映画のなかで今な3続けられているのである(映画r未知との運遇」におけるあの母艦の映像を思い蟄こしていただきたい)。まさにこれが“先進的”という意昧だといわんばかりの作舌が凝れている。
ハリウッドの丘からチベットに至るまで、天上都市の夢を真剣に迫い求め
蔓現させるべく実際に建てられた建物やそのプロジェクトの数となると、リスト化す♭ほどの数が存在しないのが現実である。建築の歴史がこの種の空想的プロジェク、に満ち凝れているとすれば、そうしたプロジェクトば夢に浮かされた想像力の素朴‡産物としてではなく、実現の望みのあるものとみなされるべきだろう。こうしたプ
すなわち万人に炉するがゆえにだれにも属さ
=いものである。言い換えれば∴エデンの園からのわれわれの象徴的かつ集合的な迫〔を適当に埋めあわせ、何らかのかたちで最終的に迫放を正当化してくれるかもしプないものを表現するイメージを、物理的に実現しようという試みなのである。それ:われわれが神の思tのなかに嵩横えのを許してくれるような宮殿の創造行為を表[しているのである。こう考えてみよう。すなわち、(失墜以前の)エデンとわれわ’の無垢つまり無知の状態との関係は、天上都市とわれわれが叡知と知識に浴れた:態との口係に等しく、エデンが、物質的自然と親しく拮ばれたわれわれの状態とぶ関係は、天上都市と、藪を啓かれた人間が行なうインタラクション、イデア、報からなる世界との関係に等しい。エデンの同では、太陽が昇っては沈み、夜とが、風と影が、葉と石があり、すべては芳しいにおいを放っていた。天上都市は、園をもちうるとはいえ、むしろ自ら水晶のような,きをきらめかせながら、実質をたぬかのように、まるでひとつの美しい方程式のごとく広がっている。従って、聖のなかのエデンの同が想像上のものでありうるのに対し、天上都市は土董あ☆味想像上のものである。まず第lに通常の意味において。なぜならそれは現実には存しないからである。さらに第2に、たとえ現実に存在することになったとしても、れは情報÷▲えため仮想現実としてしか存在できない、つまりは“想像力のなか
に”しか存在できないからである。天上都市というイメージは、実際には全一にして聖なるものと化した〈世界3〉を表わすひとつのイメージなのである。さらにそれはサイバースペースを宗教的なかたちで表わしたものでもある。
ここで建築史、特に現代建築史を簡単に振り返ってみなければならない。産業革命からl世紀後、20世紀に向かう変わり目あたりに、高張力,、鉄筋コンクリート、強化ガラスが発明された。桓めて迅速に、さらにはより少ない力でより多くのものをなし遂げようという経済的圧力もあって、建築は軽さという新しい語典を手に入れ、これを称楊した。その桔呆、太い支柱、小さな木製の窓、凝った装飾、風抜けのよい暖炉や小道、木っ葉敷やこて塗りや煉瓦稜みの作業などが姿を消していった。代わって、大胆な把手、光を反射する皮膜と化した壁、甲放的柑造、光、組み立ての迅速化、クロムが登場した。階段や道端の馬★や丸石が姿を消し、ハイウェイ、高速で走る自動車、エレベーター、エスカレーターが出現した。不動の記念碑に代わって分解して移動可能な展覧会が、アクロポリスに代わって世界見本市が出現した。l924年に偉大な建築家ル・コルビュジエはパリの半分の建物を取り壌し、代わってLaVinneR柑d二euseすなわち〈光の都市〉を建設することを提案した。これは上空へと伸びる柑造、合理性、斬新なプランニングを目指した前代未円の実験的計画であった。それはまさにひとつの天上都市であった。
l960年代になると、現代都市というものは建物や道路の寄せ集めではない
ということ、すなわちどれほど明確に計画されるか、どれほど高居的〓造をもつか、あるいはどれほど緑のスペースをもつかには一切円係がないことがはっきりしてくる。都市はコミュニケーションのひとつの広大なノードとして、メッセージ、記憶および伝送設備からなる入りくんだ拮合組織、そ九L自体の複雑性を教育する巨大な教育機械とみなされた。そこでは都市はすべてのメディアを巻き込み、逢桑坊を舎iiあとみなされたのであるnこのことをだれょりもはっきりと認識していたのが〈ァーキグラム〉と名乗ったイギリスの建築家集団だった。彼らが夢見たのは、それ自体予想されえぬかたちで建てられるサイバネティクス都市であり、テレピや竃話や空調設組や自動卒や広告といった存在に逆らわずに、むしろそうしたものに迫応しそれと戯れるような建物であった。その桔果、じ張可能な建物、場路上の建物、情報の海のなかをサメのようにすべってゆくヴィデオカメラを備えた巨大な実験演劇用シアターといった建物、ネオン、各種プロジェクション、レーザー光できらびやかに飾られた建物群、……といった作品が生まれた。こうした建物は、ポスターサイズのドローイングの連作のなかに描き出され、このドローイングは建築的C報(アーキテクチャル・テレク÷ム=Å血iecturnl Llegmms)と呼ばれ、おそらく偶然ではないと思われるが、将来出現するであろうマルチメディアコンピュータの画面を早くも先取りするものとなっているのである(クック[★4D。この建築集団は自らは何ひとつ建設しなかったが、過去から現在に至るまで建築界に大きな影,を与え続けている。
で建築の短命化とメディアへの絶え間ない屈伏を告げる兆侯を包括的に論ずれば、この第l章の主題を超えることになる。しかしそれは、形態上の粗雑な“ディズニー化現象”から卑屈なまでの設備過剰に至るまで、たくさんの局面で起こっている。だがなかでも最も輿味深いのが、建築それ自体を抽象的行為として考えることから生ずる糸である。これは古代エジプトやギリシア、そこでの数学的知識と幾何学との出会い、その結呆として生ずる正確な建築の出現にまで遡る伝統の糸である。l8世紀までは建築家は科学者でもあり数学者でもあった。例えばアンドレアパラディオ、サー・クリストファー・レンがそうであったし、それ以前ではもちろんレオナルド・ダ・ヴィンチとレオンバッティスタ・アルベルティがそうであった。l920年代かl
う
こと一一の経験的なモジュール化(modunation)を扱うものであるという考え方が、ちょうど20年代と30年代の頃の芸術家をとらえたように、建築理論の分野をもとらえた(ヘンダーソン[★l2D。これは、迫度なつりあいを求めたり、柑造的な設計を可能にする単純な数学という概念を大きく逸脱する考え方である。こうした考え方は今でも力をもっている。
それからまた、建築をその象徴的内容の点から見る伝統も存在する。つま
り、建築が一般的なさまざまな情報の場(顔、声、絵、出口の標識などを出現させる場)を形成し、それを一定のリズムで区切ってゆくやり方でなく、建物がいわばその内的解剖において、すなわち「どんなものか」という内容的意味の観点から見るというやり方である。5∞0年の歴史を経た後、今でもこの伝統は、社会の内的メッセージシステムの一部としての命脈を十分に保っている。しかしながら最近では、この建築による“メッセージシステム”は独り歩きを始めている。建築のドローイングは独立した芸術市場一一何なら絵によるコンセプチュアルアートと呼んでもよいだろう一一を生み出したばかりか、建物それ自体が建築のかたちをとった建築についての言説として、あるいは記述、探究としてみなされ始めているのである。それは場合によっては居住不能であることもある。なかでも現在艮も前衛的な人々は、麟讐王軌らるいはポスト構造主義の名のもとに活動を行なっている(それらは哲学上、文芸批評上の運動と極めて密接に桔びついている)cその関心は、居住対象としての建物にも、また美的対象としての建物にもない。それは情報の対象として、暗号と運動、接続と分離、逆転と反復、暗吠的な傷とその治療など、“読むこと”に関わるすべてのものに輿味を寄せる。とはいえ、これによって建築がどれほどまでに純粋な自己呈示、知的プロセスとなりうるかが示されなかったら、またこれが今まで私が述べてきたより大きな建築の動きの一部に十分になっていなかったとしたら、われわれにとってこの運動はほとんど興味を惹かぬ話題であっただろう(それに歴史の定めとして今日の前衛が明日の実践をかたちづくることを想い起こすべきだろう。ベツキー[★3]を参照)。
しかし、脱物質化と抽象化という考え方が通用し、有益で只味深い現実の
建築を生み出すうえでの助けとなるにしても、それには自ずと限界がある。建築は
その限界におそらく到達してしまった。飛び越えてしまったとはいわぬまでも[★l]。それでいながら天上都市への希求はまだ残っているのである。その願望は尊重されるだろう。サイバースペースにおいてならそれは豊かな実を結びうるだろうから。
サイバースペースへの扉は閉かれた。詩的かつ科学的な心をもつ建築家の
多くはこの扉のなかへ入ってゆけるし、また入ってゆくことだろうと私は信じて疑わない。なぜならサイバースペースは、常にプランニングと組織化という行為を必要としてやまないだろうから。サイバースペース内で増殖するさまざまな伊造には護軒が必要とされるだろうし、こうした構造を設計する人々はヰヰ六二ノペニゑ崔糞象と呼ばれるようになるだろう。コンピュータ朴学とプログラミング
二れは‘強群と
同義語になる)、図像表現、抽象デザインについて教育を受け、また同朋たる“現実空間”の建築家と同じ教育も受けるサイバースペース建築家は、電子の建物を設計するだろう。彼らによって設計される建物は、その物理世界の等価物に優るとも劣らぬほどの複雑さ、機能、独自性、包含性、美しさといったものを伊えるだろう。彼らの意図することは、本質的に非物質的なものを可視化し、情報の袖象化、処理、そしてその有機的組織体といった社会が生み出す最も複雑な事象に居住可能な可視的形態を与えることなのである。その一方でこうした設計者たちは、物質世界を構成するたくさんの生きた側面、特に建築の分野に常に属してきたさまざまな順序づけや娯楽
仮想世界内に肯棋実現するだろう。
本書のなかの2つの章は建築の分野からの“参加者”である。すなわち私の担当した章とマーコス・ノヴァクの章である。私の章は、い〈つかの特定の基本設計原理の観点からサイバースペースを論じ、それによっていくつかの視覚的な実例をお目にかけようという試みになっている。ノヴァクは詩的表現メディアとしてのサイバースペースは、“流体的建築”すなわち情報の建築を創造するものとして論じ、建物の設計に関する提案ではなく、むしろユーザ主導型であり、かつ白己組織的なサイバースペースというコンテクストのもとで、われわれはいかに読みうるフォルムを進化させることができるかという間いへの前奏曲となっている。
〓4この糸は広い意味で数学の歴史から派生している。さまざまな論証と洞察で構成されるこの糸は、∞幾何学および空間に関する命題、(2)算術的/代数的演算の空間化、(3)空間の本質を(2)の観点から見直すこと、といった課題の周りをめぐっている。アリストテレス以来、数学におけるこうした圭商蔑荷辛的な糸に従う演甘は補完的なものとなっている。つまり記号論理、代数記法、微積分法、有限数学等から現代のプログラミング言語に至る発展である。“補完的”というのは、こうした今名前を挙げた数学言語は、ほとんどまたは全く幾何学的空間的な解釈なしで純粋に記号的に処理できた(また今なお処理できる)からである。代数、数論、計箕理論、論理学…・これらは記号演算についての記号演算であり、それぞれ独立していIのである。
のである。
実際には、当然ながら、空間的かつ幾何学的なクオチク÷ムと由与剣(数
三記法、数学言語)が、互いに相手を表現するものとして受け容れられ、ひとくくに扱われている。しかし両者の間の違い、それに緊張蘭係といったものはまだ残ている。記号の連なりのなかでなら楽々と自然に思考し、そこで線形的演繁を行:える人がいる一方で、図形や運動や空間を介してなら楽々と自然に思考すること〓できる人がいる。当然ここにはひとつのタイプに留まらず、たくさんのタイプの知:が含まれることになる(ウエスト[★28】、ガードナー[★6】、ハダマール[★nlD。lずれにしても、サイバースペースは明らかに情報理解のための空間化それ自体の利:を前提に成り立っている。当然ながらサイバースペースは、“グラフィック・ユーrインタフェース”の計算処理の現行のパラダイムを、より高次元にそしてより包・的な経験へと拡張し、エドワード・タフトの著作[★26,2?]の人気に示されるよう、一般的な“データ作図法”やサイエンティフィック・ヴィジュアライゼーション研究分野に対する現在の円心をさらに高めるのである。しかしもっと根本的な側では、サイバースペースはより基礎的ない〈つかの技術や間題を拡張し、再活性する。それらは数学緩淳をち空間的本質および空間〓り数学的本鷲と関わるのであり、われわれが蜴現実的であると同時に計測可能と考える存在の核心に横たるものである。図形を使った厳密な推論(演澤的幾何学)は、あまねく知られでいるとお、古代ギリシアのタレスによって紀元前6∞年頃に創始され、紀元前225年に至るでピタゴラス、ユークリッド、アボロニウスらによって研究が続けられた。研究対は対(ペア)になっている。すなわち、(l)研究されるべき理想化された形一一本的には線分、円、正多角形、正多面体だが、アボロニウスは例外で円錐曲線の究を創始した一一の本質(とその作図法×そして、(2)完全な推論それ自体の本である。後者については、幾何学的演算の具体注と普遍性がその本質の例証となように思われる。幾何学的研究の成呆は建物や道路の建設、土地測且、そして今われわれが機械工学と呼ぶ分野で実用性を発揮する。その完壁さと普通性はまた、何学的線分にもとづく占星術的/字宙論的モデルの形成を支えたのである。l9世紀後半にボーヤイ・JとN‐I‐ロバチェフスキーによる非ユークリッド何学の発見によって、幾何学という学間と技術は、今に至るまで一一ケプラーとュートン以後一一予も新しい門心の盛り上がりに“ブースト”されて、散発的にヨしたにすぎない。しかし、3次元を超える高次の無矛盾的幾何学の発見と純粋位0何学の概念とによって、初期ユークリッド幾何学およびその後の一“史幾何学は、もなく新しい重要な発見を生み出しうる学間分野としての独自の埠きを失い始めことになった。視党にもとづく幾何学上の独自の発見の十入そは、より一般的かE確に、記号/代数的な分析数学言語を用いて研究することができるようになっりである。そしてその数学言語こそは、デカルトがr幾何学」で企てたことのデ
終的な成果であり、それはまさしく幾何学の定理を分析的(代数的)形式へと書き換える方法を呈示するものである。
当然ながら、幾何学と代数、空間と記号、図形と論証、といったかつての
ペアは、2つの方向性をもつ単一の存在になっている。デカルトは幾何学を“代数化”すると同時に、代数を“幾何学化”した(そしてこの後者の操作が本章の関心の対象となる)。デカルトはある奥深い発想のもとに、今日われわれが“デカルト座標系”と呼ぶ、幾何学と代数の架橋概念を確立した。その卓越した発想は次のようなものであった。すなわち、自然の物理的空間内にある諸点の位置が、共通の、しかし任意のl点を中心としてそこから互いに直交する3方向への距離の度合いを表わす3つの数値によってコード化され特定されるのと全く同様に、“数学空問”においても“距離”は物理的なものではないが数値であるため、そのなかに含まれる諸点の位置は3つ(まで)の変数項をもつ方程式の解を求めることによって代数的に導くことができる、というものである。このようにして何千もの関数が正確に白戒化され、視党化されえたのである。
今日、デカルトの卓見にもとづく数学的操作はありきたりのものとなって
しまい、進んだ初等学校なら授業で教えているところもあるほどである。しかし、これによってこの卓見に内在的に含まれる次のような観念が見落とされてはなるまい。すなわち、空間それ自体は必ずしも物理的なものである必要はな〈、むしろそれはすべての情報にとっての“戯れの場”なのであり、われわれの幕らす現実世界と呼ばれる重力とコ磁力の場は、数ある戯れの場のうちのひとつの顕現形態でしかないのである。その顕現現象の最も活き活きとした実例は、単純な反復方程式一一“フラクタル”と呼ばれる新しい科学分野一一や、最近発見された“ストレンジアトラクタ”から生み出される美しい形象をおいてほかにはないだろう。こうした整合的な幾何学やふるまいから生まれるオブジェクトは数学的空間(すなわち特別に選ばれた座標をもつ座標系)の内にのみ存在し、複雑でカオス的な物理的系のふるまいを経済的に写像/記述/規定するのである。ではどの現実が第lとされるのだろうかと、思わずわれわれは間いたくなる。
だが実際にはどれかをl番に選ぶ必要などあるのだろうか。近代の物理学者たちはなかなか積桓的である。H‐ミンコフスキーは空間に
合わせて時間を写像する効用を明らかにしてみせたし、ハミルトン力学はある物理的系のダイナミクスを、あるl点がその系の全体的状態を表現するような次元決態もしくは位柏圭商の内に美しく可視化してみせた。そしてせ子力学は、lつ以上の座標が“想像上のもの”であるようなこ↓人↓∴崔商におけるベクトルの幾何学的ふるまいのなかで自ら戯れているように見える(これに関する最新の解説についてはペンローズ[★二フ】を参照)。
その一方で、より共通性をもった図表作成技術一一古地図、各種一蒐表、科学論文から近代経済学入門書のページを飾る図表、広告、会譲室の“ビジネス図
”に至るまで一一のさまざまな発展が見られた。こうした表現の多くは実際には入#f〓★h嚇¶組T÷”ノギー巾ふスIr、ば時牢的な座槙と抽象的、数学的な座
とを混ぜあわせたり、歴史と地理を混合させたり、単純な周期的スケールと指数数的スケールとを混ぜあわせたりといったかたちをとる。クキ÷タ÷ム花を行なう動(当然その起源は書くことよりも古い)は、今もなお続けられており、今日でそれはタ÷÷±藷と呼ばれる数学と、複雑なプロセスを分析し最適化する組み合せ技術およびネットワーク技術とによって強化されているのである。では一体こうた表現の存在論的地位とは何だろうか、という間いが浮かぶ。そうした表現のすて、つまり単純な棒グラフや組織的な“ツリー図”からマトリクス、ネットワー“スプレッドシート”といった、コンピユータ生成による目に見えぬ物理的プロスを、多次元的に可視化し洗練を図る技術に至るまでのすべて、さらに、すべて油象的な位相空間、状態空間そしてヒルベルト空間内硫描ま、それらを表示す低氏あるいはコンピユータの画面という空間から同一ではないものの借用された空、つまり地理のなかに実在しているように見える。すべてのものは、自然の、現的世界を写した単なる図像ではもはやない現実を有し、すべてのディスプレイはいばどこか別の世界の物理法則を備えている。
では一体それらは何なのだろうか。そうした発見されるものでも発明される
7Dでもない存在は〈世界3〉に属するのである。事物および事物相互の関係からなぜr界のなかに置かれたわれわれの知性が進化させ〓のである。そ磁;ま、Llまでわれわれカ輻己号言語でのみその存在を語りあってきたひとつの大陸、ある意で“物質化しつつある”大陸を、初めて明確に証拠立てるのである。と同時にそれD存在は、地理の新たな観念化を表現するものでもある。それはあたかも、古代のしい難‘櫛穣、六分儀、測量コンパス、天望台、夫湧棄#、計算尺、機械時計、コ器と型取り其、地図と平面図一一すなわち物理的に存在するすべてのもの、最も辛な地理を具現するもの、われわれが空間内で戸惑わずにすむようにしてくれるす〔のもの一一が電子化されることによって、それ自身が環境となり、かつては尺度是供するだけだった事物に対して、その枠組そのものとなるかのようだ。
ティム・マクファデン、カール・トランダ、アラン・ウェクセルブラット
り論文は、私の論文の大部分を占めるこの糸4から部分的には織りなされている。ィム・マクファデンはサイバースペースの概念を、情報界のインドラ神のネット、夫わち互いに他のすべてを映しあう、点状の無数の数珠からなる宇宙として考察⊂いる。このときサイバースペースはそれ自体を映し出す進化する4次元ホログラ⊂ある(インドラ神のネットという古代ヒンズー教のイメージは、マイケルハイb論論ずるライ’
プニッッの箪手宰を形成するものでもあった)。カール・トランダー
C‐M‐工一デルマンの神経細胞群淘汰理論を計算処理用±シシシからなる非集qシステムの設計に導入し、自熟なやり方で進化しうるサイバースペースを創造虫うとする(ノヴァクもまたこうした考え方を論じている)。アラン・ウェクセル
ブラットは、抽象空間一t、現代のパソコン、計算処理における座標の本質を考察し、次いでその座標から派生するものとしての特殊化されたサイバースペースという観点から推測を行なった。
相互に織りあわされながらいずれはサイバースペースへと至るものと思わ
れる、こうした複数の“糸”についての私の考え方は、いうまでもなく印象主義的で不完全なものである。しかもそれは、イントロダクションという限られたスペースが原因であるともいえない。サイバースペースそのものがとらえどころのない未来の産物であり、この早期の段階ではだれも決定的な予想をすることができないからなのである。
しかし、これらの“糸”そのものがさまざまな糸からできあがり、また別の
糸も存在することも明らかなのである。例えば、現代に至るまでの芸術の歴史はサイバースペースに関連する内容を見せており、神話学、メディアの変遷、建築や論理学との結びつきなどを完全に含んでいる。これについては私がここで語らなかった糸だが、しかし芸術家たち一一視覚、音楽、運動に関わる芸術家たち一一が行なった仮想世界やサイバースペースの設計への貢献は、詩人であり動画アーティストであるニコル・スタンジェルが本書で証明してみせているように、将来きっと注目すべきものとなるだろう。同様にして、電気通信や計算処理技術の進歩の歴史一∵小型化、高速化、経!剤生、新しい素材、処理、インタフェース、アーキテクチャー−一は、サイバースペースへと変貌しうる独自の動機と興味を備えるそれ白体独立した糸なのである。この糸の歴史的内容については既に別のところで十分に論じられている(ラインゴールド〔★n9]、ギルダー[★loD。また社会学においても同種のストーlJ一が、さらには言語学、生物学の方面においても存在する。結局のところすべての学問分野が、サイバースペース創造の事業に関心をもち、そこに何らかの果たすべき貢献を見出すとともに、それらの行為を正当化する歴史的記述を提供できるものであることを人々は今や埋解し始めている。それも当然ではなかろうか。われわれはひとつの新しい世界のかたちが出現するさまを目の当たりにしているところなのだ。その世界は、われわれが知り、そしてこれまでつくりあげてきたあるがままの世界の拡張であると同時に、その書き換えとして、無数のやり方で端緒を開いてゆかねばならない。
私の述べることが印象主義的で不完全であるもうひとつの理由は、こうした糸のメタファーそのものがあまりにも理路整然としすぎていて、いわねばならないことすべてを支えきれないということにある。規模は別として、より深くまたよりかたちの定まらぬものが今や動きつつある。次のように考えてみよう。もし情報が空間と時間のまさに柑成材料であるならば、情報をつ〈り出すとは一体何を意味するのか、また時空的にnたる互いに異なる地点間で情報をますます速〈伝送し、かくしてその隔たりを無効にしてしまうとしたら、それは一体何を意味するのだろうか。サイバースペースとヴァーチユアルリアリティ技術の成熟によって、この種の現実組織の歪み、空洞化、損傷は、たとえそれが完全な量子レベルでの物理的現象にはなりらないにせよ、無数の箇所で知党しうる現象的事実となるだろう。今は頭脳の産Iだが、明日には実用の産物となるもの、それについてはただ想像をたくましくする:かはない。
:後に、私の“糸による記述”が本轡の著者たちの論考の内容を説明づけるもので:ないことをお断りしておこう。著者たちにはそれぞれの観点、専門知識、関心がIり、ここで私が触れなかった事柄、私が概説を加えなかったかもしくはほんのさわ程度にしか紹介しなかった分野から、それぞれ独自に着想を得たりしている。各:についてのより詳しい#論をここで展開するよりは、読者各自が論文そのものにたることをお勧めしたい。その多〈は、「第l回サイバースペース会議」[☆l]の際I発表論文をもとに、手を加えたり発展させたものである。それ以外は本論文集のめの轡き下ろしである[☆2]。著者全員は、彼らが想像する多様なサイバースペーがいまだ存在しないにもかかわらず一一否、それゆえにこそ一一このうえなく真剣、かつ鋭く、また熱狂的に主題に取り組んでいる。確かにサイバースペースの定;そのものが著者たちの(あるいはあなたがた読者の)手に握られているともいえ。これまでのことから、次のことが確実に予想される。すなわち、サイバースペーの出現によって、いわゆるボスト工業社会に多大な影響が及ぶであろうこと、まサイバースペースを、人に先んじてしかもユも正しく構想し実現する人々に与えら,る物鷲的経済的見返りは、莫大なものになるであろうということである。
かし見返りがどうのという話はこの際脇にこくとしよう。本讐というさまざまなる吏初の一歩(ファーストステップ)”を踏み出すことによって、想像し碓い想像物と:像しうる現実とを創迫するうえで伴う困難な間題に、これから立ち向かうことにしうではないか。サイバースペースという古えの試みを続行させようではないか。
■原註☆l−一l9∞年j月4一5日にテキサス大学オースティン校で円催された。「第2回サイバースペース会,(国r会,)」、は199l年4月l8−l9日にカリフォルニア大学サンタ・クルス枚でHかれた。☆2一一ギプスン、トーマス、ストーン、ウェクセルブラットのそれぞれの革。
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